紙相撲の世界
紙相撲の歴史
はじめまして、日本紙相撲協会の錦風でございます。
これから、私が徳川式紙相撲の歴史についてご案内致します。
まずは徳川式紙相撲の成り立ちからお話致しましょう。
私が生まれる前、遠く昔のお話です。
紙相撲のはじまり
遡ること昭和26年、相撲に興味をもちはじめ当時小結栃錦のファンになった学習院中等科の徳川義幸氏(前理事長富士浪親方)は、休み時間に下敷きの上で紙力士を取り組ませ、いじわるな奴が「フッ!」と吹くのをさえぎりながら単純な勝負をして遊んだのが紙相撲に興じた最初でした。
昭和27年大相撲春場所のNHK志村正順アナウンサーの実況や横綱羽黒山の優勝にいたく感激した徳川少年は、この場所から大相撲に心底夢中になりました。
そこで、志村アナウンサーの押し殺したような早口でしゃべる実況放送を真似しながら、弟さんや友人たちと一緒に紙相撲の遊びを始めたのです。
手ごろな大きさの菓子箱に円い紙を張り付けて、その中央に葉書を二つ折りにして切り抜いた左右対称の身長4cmほどの力士を向い合わせ、箱の両端を徳川少年が一人で指でトントン叩いて、どちらが先に倒れるかといった誰しもが一度は作って遊んだことのある紙相撲と何ら変わらないものでした。最初は力士の四股名も羽黒山、東富士、千代の山といった当時の人気力士の四股名で、遊び方はトーナメント方式によりそれを何回も繰り返すというものでした。それでは飽きてしまうということで、力士にはそれぞれが考えた四股名をつけて、番付を作り、星取表を記入して紙相撲に熱中していったのです。
昭和28年になって、それまで4cmだった力士の身長を現在の協会規定である1尺を1cmにみたてた6cm前後に改めました。
さらに蔵前仮設国技館にならって、土俵に吊り屋根をつけ豆電球をともした仮説国技館を設えて、本腰を入れて紙相撲に取り組んだのです。
「大日本紙相撲協会」と名乗って、その年の1月から9月にかけて本場所は19回開催しました。
力士の数も増えて、横綱在位16場所、優勝5回の五根山をはじめ、小内山、清水山という強豪も生まれました。
しかし、第19回本場所五日目を終わったところで、徳川少年はぱったりと紙相撲への興味をがなくしてしまいます。
その原因は相撲内容にありました。左右対称で1人で立つことができる力士は、一方が前に倒れて向こうづけの体勢となり、そのまま寄り切るか引き落とされるかというもので、実力も安定せず、横綱大関が本当に強くないのです。その上、街頭テレビで見た本物の相撲との隔たりが大きすぎて、「紙相撲は所詮本物みたいに相撲がとれないのだ!」と強く感じたからでした。
「徳川式」紙相撲の誕生
相撲内容さえよくなれば紙相撲に熱中できるはずなのに、たわいない遊びに終わってしまうことに未練を残していた徳川少年は、昭和29年大相撲初場所を間近にした頃、お父上のご友人に紙相撲を見てもらった時のアドバイスを思い出し、相撲内容で行き詰まった力士の形の大改革を始めたのです。
それまでの左右対称の形から、左手はひじから先を前にのばして下手にし、右手は肩からまっすぐ前にのばして上手とし、足を少しふんばる格好にして、今まで踵までついていた足を股から切り離して少し前に傾斜をつけ、そして足を少し外側へそらしてみたのです。
この力士を二人作って、おそるおそる試しにかかりました。土俵中央に力士を組ませ、精神を集中して意を決してトントンと叩いたのですが、両力士がジリジリと動くものの少し動きがにぶいので、少し乱暴にドコドコと叩いてみたのです。すると両力士が活発に動いて土俵狭しと熱戦を繰り広げたのです。
「これはすごい!相撲らしく相撲を取り、投げも打つし、土俵際で踏ん張って体を入れ替えたりする!」全身がワナワナと震え、喜びが湧き上がり、夢中になって数回繰り返したのです。試みは大成功でした。
また、タイプの違う力士を作っていろいろと試した結果、この新形力士に相撲を取らせるにはもっと土俵がはずむ方が良いこともわかりました。箱を叩くだけでは芸がなさすぎるので、ボール紙を四角に切ってその上に輪を貼り付けたものと土台と別々にして、その間に消しゴムを小さく切ったのを四つはさんで試してみると、軽く叩くだけけで力士が小気味よく動いたのです。あとは消しゴムを一番具合のよい土台の位置に貼り付け、台の四隅に穴を開けて土俵がずれないように釘で連結したのです。さらに、そのままだと土俵が少し滑るので、小刀で適当にひっかいて最後の仕上げをしました(土俵はその後、昭和33年にサンドペーパー使用による改変で、さらに力士の動きが速く多彩な技を繰り出すようになりました。)
この大改革によってできた新形力士と土俵が、半世紀以上も続いている現在の「徳川式」紙相撲の基本となっているのです。
つづく・・・。